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妻よ生きてくれ

平成十一年七月末。昼食後、居間でテレビ
を見ていた私はいつしか寝入っていた。

「父さん父さん」と呼ぶ声に目をさますと
妻もソファに横になっていて

「頭が痛いしめまいがする、
 病院につれていって」と言う。

「歩けるか」と聞くと返事をしない。

これはただごとではないと思って車を出し
お隣さんを呼んで戻った途端に家の中から

「ギャッ」という悲鳴。

飛び込んでみると妻はすでに意識がない。
頬を叩き大声で呼び掛けたが反応はなく、
救急車で病院に向かう途中も嘔吐が続いた。

つい先ほどまで笑いながらテレビを見て
いた妻の急変に、私は動転した。

検査の結果

「当院では処置出来ない。このままでは
 数時間の命、もたないかもしれないが
 K市の病院に行くしかない」となり、

再び救急車でK市へ。

約一時間の遠くて長いこと。
医師の目はモニター画面に釘づけ。
私は何とかもって、何とか助かって
と祈り続けた。

長い検査の後
「くも膜下出血で手術は可能」となり、
頭を剃られて運ばれる妻の姿に、
駆けつけた息子たちや身内と共に思わず
手を合わす思いがした。

夜七時に始まった手術は十二時間に及び、
途中での医師や看護婦の出入りに幾度
ドキッとしたことか。

朝七時
「先生からお話があります」
と呼ばれ息子たちと出向くと
「手術は無事終わったが予断は許さない、
 命をとりとめても多くの障害が残る」
など恐ろしい話。

会ってもよいとのことでICUに入ると、
かすかに目を開け、差し出した手を力なく
握り返した。

「二、三日で意識が混濁する」
との言葉通り目を開けなくなり、
「肺炎を併発しているから二週間が山、
 脳動脈の閉塞があり非常に危険」
とも言われ、生きた心地がしなかった。

その二週間も何とか乗り越えて流動食から
経口食となり、食事介助に入れるように
なったときの嬉しさを今も忘れない。

「左片完全麻痺をはじめ様々な障害が残る
 ことを覚悟するように」

との医師の言葉通り、言語障害はないが
左手足はほとんど動かない。それでも
ひと月で個室に移り起居を共にしての
看病が始まった。

後遺症による極端な頻尿で日に二十回
くらいの排尿があり、病院内とはいえ
ほとんどは私の役割だった。

これが一番こたえたが、少し回数は減った
もののそれは今も続いている。

七ヵ月余りでそこを退院し、二ヵ月ほど
自宅で過ごした後リハビリでA市に入院、
三ヵ月後にはまた自宅での介護が始まった。

毎日の通院リハビリや、要介護度5の認定
による介護保険のサービスを満度に使って
も、それは私の役割の一部でしかない。

しかし「家ほど良い所はない」と言う妻の
願いをかなえるため今後もリハビリ入院
以外は在宅で通したいと思っている。

その年引退するまで十六年の町議生活、
特に議長時代は妻には家業と家事で誠に
多くの負担をかけてきた。しかし妻は
一度として不平不満を言ったことはなく、
ただ黙々と働き通した。

私自身は
「充実した人生を送ることが出来た」
と思ってきたが今になって
「経済的な面を含め私の価値観を妻に
 押しつけた結果のことか」
との思いが時折胸をよぎる。

善良で素直で勤勉だった妻を私はひそかに
尊敬してきた。今、毎日午前と午後の
約一時間ずつ私流のリハビリをやるのだが、
その際つい強い調子で言うと

「こんな簡単な事も出来ないで叱られる
 なんて本当に情けない」

と泣きだす妻に幾度暗涙にむせんだことか。

それでも最近はつかまれば立つことが
できるし、装具をつけリハビリの先生に
よって歩く練習をするところまできた。

その姿は痛々しいが、少しでも自力で
歩けるようになってほしい。
車椅子を使ってでも良いから旅行に連れて
行けるようになってほしいと念じながら
ひたすら努力している。

「夫は十分尽くしてくれた」

と心から思ってもらえるような介護を
めざしながら、倒れて間もなく二年、

この間妻のそばを離れたのは
福祉ネットワーカー養成講座で東京に
招かれた二回の五日間だけ。

老人だし失神したこともあったが、
体の続く限り私の生き甲斐として
妻を支え続けたい。

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介護は我々の想像をはるかに超えるほど
大変なことと思われます。

でも愛があるからこそそれをしたいと
思えるんだろうし、出来るのでしょう。

勉強になります。



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